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山ちゃん5963

山ちゃん5963

1.はじめに一言2.3.4.5.6.7.

一、はじめに一言
山ちゃん4

この『山口ファミリーヒストリー』は直訳すると『山口家の歴史』となるのじゃなあ。そして、これは自分(山口和久)を含め、山口ファミリーの過去の出来事を日本そして世界の史実とも照らし合わせ平成十五年の夏休みから冬がくる間に検討を行い、将来の山口家族発展の元となすよう活用していく為作成していく研究書である。が、なにせこの手の仕事は初めてなもんで色々と問題は発生してくるであろうばってん、が、今回の著作に関しては、より力を注入して、頑張って仕上げたいものだと思っている筆者でありますぞ。この『山口ファミリーヒストリー』の作成開始は平成十五年八月十五日の日本の終戦記念日。これを読み研究する諸君も一緒に色々と考えて今後の参考になれば幸いです。
さてさてまず第一部としてはヤーウエーが人類創世したのが十万年前だのう。その先祖はアダムとイブだとして、一体彼らはどのようなあやまちをおかしたのであったか。それは諸君自身で学んでくれい。そして三万年前に日本列島に旧日本原人の渡来があった。へてから日本国古墳時代から昭和の終戦後自分が結婚するまでを史実に忠実に従い研究しますぞや。我山口ファミリーはいったいどのようなヒストリー(歴史)を歩んできたのだろうか。そして、さらに我々はどこから来て、一体どこに向かっておるのでありましょうや。追加記述した日は平成十五年八月十六日。さらに八月十七日。十八日。十九日。二十日。二十一日。二十二日。二十三日。二十六日。二十七日。二十八日。二十九日。三十日。三十一日。

二、生まれ年昭和二十六年

山ちゃん4

昭和の大東亜戦争は昭和二十年八月十五日、非常に真に残念な事ながら、日本がアメリカ・イギリス・ロシア連合軍に対する敗戦で終了してしもうたのじゃ。そして昭和二十六年1951三月三十日にワシは生まれた。

実際の戦争を知らない子供だがや。ワシの父は山口完二(かんじ)、母は山口玉枝(たまえ)と言う。ワシには、兄が二人居る。長男山口嘉孝(よしたか)、次男山口泰俊(やすとし)、泰俊兄の生まれた昭和二十三年には、郵便週間記念切手 安藤広重画『月に雁』が発行されている。それから文化人切手が発行された『野口英世』『福沢諭吉』『夏目漱石』『坪内逍遥』『九代目 市川団十郎』『新島 襄』『狩野芳崖』『内村鑑三』『樋口一葉』『森 鴎外』『正岡子規』『菱田春草』『西 周』『梅謙次郎』『木村 栄』『新渡戸稲造』『寺田寅彦』『岡倉天心』。諸君も知っている文化人ばかりであろう。なに、知らん?おいおいしっかりと勉強してくれや。日本の文化人たちの事は知らにゃーいけんぞ。外国の事はその次のことじゃよ。今からでも十分間に合うけんね。
そしてワシは山口和久(かずひさ)。生まれ年には平和条約が調印され記念切手が発行された。ワシは小さい時は山口家三男であると思うていたのじゃ。しかし事実はそうではなかった。そこにはその大東亜戦争の影響がありワシの人生は曲折しておったのじゃ。さてさてそれでは、ワシの家系を手繰ろうかい。

三、日本一低い分水界氷上
昭和26年兎
ワシが生まれたところは、本籍地〒669-3463兵庫県氷上郡氷上町北野である。昔は兵庫縣氷上郡生郷村(いくさとむら)北野と言っていたのう。そう明治の頃だわい。しかしまた、そのずーとずーと昔、古墳時代(四世紀から五世紀)には丹波の豪族(渡来人)が住んでおった痕跡が今も残っているのじゃ。事実山口分家(ワシの生まれた家)の庭には古墳がある。昔は二つ、現在古墳は一つになっている。無くなった古墳の一つは山口家の庭石になってしまった(兄泰俊が庭石に使用した)。またすぐ北西には有名な親王塚古墳があった。文献には直径約二十五メートルの円墳と記載してあるが、ワシと泰俊兄の一致した考えではこの古墳、実を申せば、前方後円墳(直径約二十五メートルの円墳に一辺約二十五メートルの方墳を組み合わせたもの)であったと考えている。拝壇は方形部分にあったに違いない。親王塚からは千八百九十九年(明治三十二年)の発掘により三角縁三神三獣鏡が発見されている。その鏡はかなり保存状態が良く、現在は国立博物館に展示されていると聞いている。また東側丘陵部分には四十九基からなる新王塚北野古墳群がある。兵庫県教育委員会が全てに番号を付けたが、ワシはその全貌についてまだ知らない。しかし昔兄とよくおやつとして『いたどり』を裏山の北野貯水池近くに取りに行き、北野古墳群巡りを一緒にしたものだ。北野神社の横の古墳にはごろごろと土器の欠片がころがっていたのを覚えている。それは、須恵器の欠片だった記憶があるのう。最近の古墳の破壊は加速的であり危機的状態であると思う、ワシは後世の為にこれらの古墳を全て国家的事業として保存して欲しいと思うているぞや。なんとなればこれら古墳は大陸から日本に進出した民族の史実の記録であるからだわい。これらが、我々日本民族の祖先であると考えて宜しかろうぞ。

ところで、山口ファミリーはこれら古墳群と何等関係はないのであろうか。親王塚と山口家の位置関係から考えて親王墓守であった可能性が大である。本家の爺様(山口喜作さん)が昭和の始めに親王塚を一人で掘って深さ二メートル地点において、刀(たち)を見つけた。その刀(たち)はどこへ流れたか行き先は不明である、が、その墓の親王の呪いが本家を没落させたという話もあるのだよ。本当かどうか、恐ろしい話だわい。が、ワシゃ信じない。ワシゃ本家の爺さまが墓守の役をこなそうとしたのではないかと考えている。これを読み始めた諸君の感想はどうかい。ワシが子供の頃はその盗掘口が無様(ぶざま)な大穴だったものだ。その後、親王塚には北野有志により桜の木が植えられ、親王塚公園として整備されつつあったのだが、近年(平成の時代)に至り親王塚の全敷地を購入し、そのうえに自宅を建てた輩(やから)がおるのにはびっくらこいた。親王塚は国有地ではなく大阪人の私有地だったらしいのだ。当然のごとく新王塚を整地して自宅を建設した輩はこの世からあの世に旅立ち(やはり呪いだろうか)いまは何処へやらいってしもうたわい。多分天国ではないぞや。しかしまだ新王塚の上には、家が建っており名も知らぬばばさまが住んでいらっしゃるぞや。畑や田んぼを作るのはまだ許せるが、まったく何を血迷うたのかい?あほうじゃのう。親王塚の池側には教育委員会の立てた説明板が今はある。ワシの今後の考えは親王塚復元計画をいかに行うかがこの先のポイントとなってくるのだわい。復元後ウォーキングコースにしたいのう。名付けて『丹波市北野四十九古墳めぐりウォーキングコース』ではいかがかいなあ。
さてさてここに『日本で一番低地の分水界』という特異自然条件を披露しておくぞや。

JR石生駅のプラットフォームにはその『日本で一番低地の分水界』の詳しい説明板があるぞや。また機会があらば見ておくんなさいや。さてさて古墳時代には北の異国から百済・新羅の渡来人が舞鶴あたりに進出し、ひいては日本(倭の国)を侵略しようとしていた。今でも北朝鮮から新潟へ万景峰(マンギョンボン)号がやって来ているが同じルートで百済・新羅人は千五百年前から暗躍しているのだわい。そうは思わんかい。さて、渡来人(軍人)は朝鮮半島(のどこか)を出立すると一日か二日あれば舞鶴あたりに到着する。そこから近畿地方にあった大和を目指す為に進む最短距離の古道は、そうだ必然的に日本で一番低い分水界を進む。軍事物資を移送するには山越えをしないに限る。だから舞鶴あたりを発し由良川沿いに市島そして春日それから北野へと進んできたと想像されるのである。その行く先には摂津に仁徳天皇(陵)があった。

だから、『水分かれ橋』あたりは古墳時代から日本海と瀬戸内海から大和を結ぶ交通の要所であったのだ。
現在の石生には『水分かれ橋』という丹波で有名な橋がかかっている。そこに降った雨は『水分かれ橋』で日本海側と瀬戸内海側に分かれて流れた。日本海側は由良川へ、瀬戸内海側は加古川へ流れる。ここが日本で一番低い分水界と云われる所以(ゆえん)だ。標高はわずかに九十五メートルなのである。渡来人はこの水分かれを通り加古川の川沿いルートを通り播磨・そして摂津から大和に向かったものであろう。また大和から百済・新羅へ帰朝する一団も同じルートを逆に通過したはずである。よってここ北野あたりは古墳時代交通の要所であったと考えて申し分ないはずだ。この新説はワシ独自の考えじゃがのう。この古墳時代の歴史はまだまだもっともっと研究されて良い分野だと思うぞや。今も雨は水分かれで瀬戸内海側と日本海側に水は分かれてながれているのだから。たとえば、近い将来地球温暖化により地球海面が九十五メートル程上昇した場合、日本はこの分水界により二分割されるという事になるのだ、が、その事実を予測し得る人はSF作家の小松左京とワシくらいであるぞや。この点に関してもよく勉強し、何としてもそのような事態を避けるために『検討・努力』を注がなければならないのう。地球温暖化防止に関しては、我山口ファミリーにおいては参女『茶々』が一番詳しいぞや。よく勉強してくれいのう。たのむぞや。

四、山口家系

時代は下って江戸時代の山口家に関して書かれた資料はワシの手元に全く無い。家系については全くと言っていいほど分からないが、ワシの推測(いや、直感)では、北野親王塚墓守のなれの果てで武士(郷士であろうなあ)のような仕事をしておったか、落ちぶれても田を耕しながら細々と暮らしておったのではないかなあと思うのじゃ。専門家に調査を依頼したいとも思っておったが、なにせ先立つもの(金の事だ)が無いという現実があるのじゃ。じゃが、我山口家には昔から錆びた日本刀が一本置いてあったからそう思っただけの事だ。墓守ならなんらかの行事があったはずだが、そのような伝承は何も無かった。もっとも古墳時代が紀元五世紀とすると、そこからすでにもう千五百年ほどの年月が流れておるからのう、全てそういうものは失われておっても不思議はないのじゃよ。

丹波の国生郷村大崎仏現寺(昔の住職は広瀬弐雄氏で父完二の柏原高校同級生、現住職はその息子の広瀬氏で泰俊兄の氷上中学校同級生、みどりさんというワシの氷上中学校同級生もいるが)の過去帳には江戸時代のことも書いてはある。ワシの記憶ではたしかその筆頭は山口自定(ときさだ)とあったように思う。どうも百姓ではないように思われるよなあ。なにか、いわくのある古武士くずれのくそ坊主のような感じもするんだよなあ。そしてその次に現れる名前は、(山口)自定与右衛門とかいう名前ではなかったかと記憶しておる。なんかだんだんと武士らしい感じもしてくるではないかい。ただし、こちらも水飲み百姓ではなかった事はほとんど確かである。

村役場の戸籍簿にあがってくるのは山口嘉四郎という『庄屋主』だ。その人は丹波の国生郷村では大きな庄屋だったらしいのじゃ。山も相当あって、田んぼも何町も持っていた、詳しくはわからないが小作人も少なからず抱えていた。しかし、その頃の事を知っておる古老はもうとっくの昔に皆亡くなってしまったのじゃ。が、嘉四郎はなかなか優秀な庄屋主だった(理由は今は確信が無いので言えないが)とワシは考えている。嘉四郎はワシの曾じいさんにあたる。嘉四郎は長男ではないから山口本家から分家したものだよなあ。どうも庄屋分家で金貸し業もしとったらしい。

次にワシの祖父が山口貞次(ていじ)という、貞次は若旦那さんで生郷村の村会議員をしておった。頭はつるつるはげでまんまる坊主だったなあ。入れ歯をしとっちゃったよなあ。また庄屋全盛時代の苦労知らずのぼんぼんだった。ということは庄屋金貸しをやりながら金をどんどん使う、その結果、山は売る、田んぼは売るということだったように記憶しておる、が、間違いだったらごめんなさいや。まあ日清戦争もまた日露戦争もやっとった頃だから、戦費の供出と言う事で山を売ったこともあると思える。なんせ若旦那だから会合(今の飲み会じゃのう)で、『貞次さんこんどの戦争でな、神国日本がろすけのロシアを攻める軍資金が入用でなあ、なんとか百円供出してくれんかいのう。』なんて言われると『よっしゃ、よっしゃ、この山口にまかしとけや』と言ったに違いないなあ。ありゃ、そうかい、ワシに良く似てるかい。そうかい。そうかい。そうすると山が売られる、そして戦費として使われるというような事があったにちがいないなあ。

ワシの記憶では、じいさんと後妻の山口まつゑ婆さんが晩年仲良く縁でひなたぼっこしていたのをよく覚えているのう。まつゑ婆さんは鶏のたまごをとりに母屋の上の鶏舎へ行き、貞次爺さんは卵を産まなくなった鶏をつぶして『かしわ肉』にしておった。それがまた上手であったのだ。かしわの毛を毟って、火であぶるとなあ、なんと臭い匂いがしたことかいや。かしわは当然とり肌になっとったわい。また、砂袋ちゅうもんがあってのう、砂袋の中には本当に砂が入っとったのう。鶏は砂袋で食べたものを消化しとったんやね。

それから貞次爺さんは、蝮(まむし)を捕まえて、棒で三角頭を押さえ付け、鎌で蝮の皮をクルリとむくのもとても上手だった。蝮は皮をむかれてもそして骨だけになっても、うねうねと動くのだぜ。蝮はとにかくものすごい生命力を持っていた。かつて織田信長の舅は蝮の道三といわれたが、相当執念深い坊主だったらしいが、まあ本物の蝮は道三よりすごいぞ。貞次爺さんは蝮の動いている心臓『きも』をつるりと飲み込むのがたまらんと言っておったしのう。現実に、爺がその確か青い色で小指大の『きも』をつるりと飲み込む光景をワシは何度も見せられた。毒があるのに、こわい爺やのうと思ったことよ。実際には蝮の毒は蝮の歯のあたりから出るので、きも自体には毒がないのだがな。
まつゑ婆さまの実家は柏原の奥の小倉にあった。ワシが小さい頃は行ったことがある。大きな家じゃった。よく行ったのは柏原劇場の傍の○○パーマ屋さんじゃ。そこはまつゑ婆さまの親戚だった。ワシと泰俊兄は柏原劇場にてたまに映画を見せてもらった。洋画が多かったよなあ。柏原厄神さんの下の広場で橋幸夫ショーも見たなあ。
しかし、またなにか穏やかで、幸せそうな感じの貞次爺と様まつゑ婆様の御両人だったのう。よー。よー。また二人ともわりとしゃんとしておったなあ。昭和三十年頃、ある日兵庫県立柏原高校の生徒が貞次爺に『昔の話を教えて欲しい』と話を聞きに来ていた。そして、写真も撮っていた。貞次爺は着物で正座して縁側にすわった。学生はシャッターを切っていた。はたして貞次爺がどのような話をしたのか、ワシが子供の頃だったので、その内容は全く覚えていない。また、まつゑ婆さまは数を数えるのに不思議な数え方をした『ちゅう、ちゅう、たこ、かい、な』これは『2に4し6ろ8は10とう』という数え方と同じじゃ。いったいなんちゅう数え方かい。ワシにはその意味はわからん。たれかわかれば教えてたもれ。
その貞次爺が老衰で死んだのはワシが高専生のころ享年八十二歳だった、まつゑ婆様が死んだのはその三年後だった。婆様は死亡する直前のある時庭でころんで足の骨を折った。骨そしょう症じゃったのかいなあ。病院に行ったがびてい骨に釘をうたれて『痛い痛い』といいながら亡くなったのだった。本当にかわいそうにのう。しかし、墓守・郷士・武士・坊主・庄屋・金貸しと続き、版籍奉還・農地改革にて大農業を営むようになった家系だからかなぜか皆全員シャキッとしておったわい。

平成十五年の現在、ワシの生家は母玉枝が傷痍軍人の妻としてじゃが今だ健在であり、兄泰俊が香良病院にて病気療養後(もうほとんど回復したが毎日投薬を欠かせない)自宅にて療養中である。そのうちに全快することを祈っておるワシなのでありんす。

五、父の大東亜戦争
ワシの父は山口(かんじ)というてな、完ちゃんと呼ばれていた。大東亜戦争(第二次世界大戦は西暦千九百四十一年に始まった)完ちゃんは大東亜戦争で満州に戦争に行った。ワシはそれを写真見て知っとるだけだのう。写真には満州関東軍の門で守衛をしている写真、南京かぼちゃの収穫をしている写真、柔道をしている写真、剣道をしている写真、それから完ちゃんの腹に中国軍の鉄砲玉を打ち込まれ衛生兵として介護している写真等があった。ワシは、陸軍軍人だった父から戦争の事を聞いた事は何も無い。と言う事は、父には戦争の良い思い出は無い、人に言う事は何も無い、そういう戦争だったのではないか。まあ誰でも戦争の思い出はいやな事ばかりだろう。諸君そう思うだろう。
さて父完二には兄がいた。山口(よみし)といったが山口陸軍上等兵は大東亜戦争で戦死した。戦死の状況は聞いていない。後に残ったのは、妻山口玉枝と長男山口嘉孝だった。山口嘉伯父は時の内閣総理大臣『佐藤栄作』より賞状をもらっている。今でも北野の山口家の客間にその額が日の丸と共に掲げてある。しかし、母から言わせれば、そんなものより『生きた本人を返してくれ』という事ではなかったか、と察する。
かつて、神国日本はアメリカ州ハワイ真珠湾攻撃で大東亜戦争の発端を開き、引き続き南方のマレーシア、シンガポールへ大進撃を開始したのだった。シンガポールは昭南島と改名し山下泰文が植民地化し、その支配は数年継続した。戦争当初、神国日本はまだまだ戦争の状況は良かった。強かった。軍事力があった。しかし、山本五十六も飛行機にて南国から移動中に戦死し、終盤には鬼畜米英と言ったアメリカに沖縄を侵略され、ひめゆり隊が惨めじゃったわい、さらに広島に(昭和二十年八月六日)、そして長崎に(昭和二十年八月九日)アメリカにリトルボーイと呼ばれたアトミックボンブ(原子爆弾)が各一発落とされた。それが最後だったわい。日本は全てを失ってしまった。日本の敗戦は昭和二十年八月十五日だった。まる裸の焼け野が原があるのみだった。くしくも、十五日、ワシがこの研究書『山口ファミリーヒストリー』の著作に着手した記念すべき日だ。昭和天皇のポツダム宣言受諾そして玉音放送がなされたのだが、その放送は何も聞こえず、雑音放送だったらしい。『ガーガー、ピーピー、ザーザー』大体昔の真空管のラジオで何が聞こえるかい。一番喜んだのは生き残った日本国民だったろうねえ。だが、ワシは表向きだと思うのだが、その時日本国民は皆泣いた、また自決した日本軍人も多数おった、が、『人間宣言』をした天皇陛下が言ったように、日本国全国民は『耐え難きを耐え』、『忍びがたきを忍び』、新しい民主的日本を作ろうと、その一足一足を踏み出したのだ。蛇の目傘(ダグラス・マッカーサー元帥)はかつての神国日本を民主国家日本にせんと手管を尽くした。が、現在はそのようになったのだろうかいな?神国日本の為に玉砕した軍人は虚空で何を感じておろうか?何の為に今も靖国神社に英霊が奉られておるのか?我々日本人が『世界に向けてせねばならない事』はいったい何なのか?これを読みつつある諸君も考えて欲しいとワシは思うておるぞ。

一方父は戦後一年くらいして、捕虜生活の満州もしくは択捉から引き上げ船に乗って、京都府舞鶴港に着いたのではなかったか。瞼の母はもうすでにいなかった。舞鶴から兵庫縣生郷村は近いぞ。今なら一時間くらいだと思うが、父は日本国有鉄道(今のJR西日本)に乗り舞鶴駅そして福知山・丹波竹田・市島・黒井・石生駅へと最終的には家路に向かったのではないか。いったい何時間かかったのだろうか、その頃の状況も全く分からないが戦争後の悲惨さの中に、父には生きる『希望』がきっとあったはずだと思っている。父は石生駅で蒸気機関車を降りると土のままの県道(今は国道276号線でアスファルト舗装されている)を歩くこと約十五分、山の入り口、そこに北野山口家はある。家の目印は横に樹齢百五十年くらいの大きな松の木がある丹波の国北野で一番大きな家だった。さて父が家に着いてみるとそこにいたのは山口爺様、山口ばあ様(前妻はもう亡くなり後妻であった)、姉山口よし子、山口玉枝(嘉の後家)、弟山口三郎、妹山口さだゑ、山口嘉孝(嘉子供)だった。皆貧しい暮らしだったのではなかろうかと推測される。

父が満州の戦地から丹波へ持ち帰ったものでワシが覚えているのは(ワシはまだ生まれてはいなかったから、後から見たのは)
1 日本陸軍軍刀(泰俊兄と軍刀で遊んだが、よく木が切れた。兄はさらによく切れるように、砥石で研いでおったぞ。)
2 日本国旗(なぜか海軍の国旗で日の丸に朝日がさしており外周には飾りがついておった、それは母が枕にしてしまった。きっとそのまま保管したくはなかったのであろうとワシは考える。)
3 勲章(何の勲章か知らないが、泰俊兄とワシが庭に埋めて、宝探しをして遊んでいたら、どこかにいってしもうて、無くなった。父がワシの勲章どこにいったか知らんこ?と言っていた。が、ワシは知らんと答えた。ごめんよ。)
4 飯盒(戦時中それで飯を炊いたもので、深緑色であった。満州での飯盒炊爨は一体どのような味がしたのだろうか?しかしその飯盒はなぜかまだ新品のように思えた。なんぜだろう?なんぜだろう?)
5 軍靴(満州を踏みしめた皮の編み上げ靴で、なかなか立派な靴だった。)
6 手編みベルト(父が軍足をほどいて自分で編んで作ったものだった。なかなかよく出来ておったわい)
7 脚絆
8 黒猫(くろねこ)等等
であったが、後日全部ワシが使わせてもらったものだ。特に手編みのベルトはなかなかの出来栄えだった。その頃の常として戦争未亡人は家に後家でいるとその家の誰かと結婚して、その家の一員として再び尽くしたのだが、ご多分にもれず、父完二は玉枝を嫁にもらったのだ。その時の父の気持ちは正直ワシには分からんが、しかし、そりゃあまりうれしくはなかったかも知れんのう。しかし、そのうちに父完二の長男泰俊が昭和二十三年十月四日に生まれ、次男のワシが昭和二十六年三月三十日に生まれたのだ。だから、ワシは次男で兄泰俊と養子の兄嘉孝がおるという訳だわい。戦争がなければ我山口ファミリーは現在の姿ではなかったと思われる。人生は不思議なものじゃのう。そうは思わんかい?

六、ワシはお拾い様
『足立さん、じゃー私がこの子を捨てるさかい、あなたが拾うてくださいな。捨てる場所は、北野神社石階段上がり口ですよ。』『はい、わかりました。』これは母と街道筋に住む足立はなさんと昭和二十六年三月三十一日に交わされた会話だ。
その昔日本の戦国時代の最終の事であるが、十五世紀の頃、羽柴筑前守秀吉が太閤殿下となった後、淀君(茶々)に子供が生まれたのだ。その時、太閤殿下は赤子を茶々から捨て子にして北の政所(寧々)に拾わせた。それは大阪淀城の登城門の石段だったのだ。その赤子はおくるみにくるまれ『おぎゃー、おぎゃー』泣くままに捨てられてしまった。その赤子は『お拾い様』と呼ばれて北の政所(寧々)に養育されたのだ。『お拾い様』は後の豊臣秀頼となったのだ、が。しかし淀殿と秀頼は、非常にかわいそうな生涯を淀城にて向えてしまった。しかしワシはこの歴史話が好きでのう、
吉川英治

吉川英治の『新書太閤記』『宮本武蔵』『黒田官兵衛』などよく目をはらし泣きながら読んだものだ。また山岡荘八の『織田信長』『徳川家康』などもワシの愛読書じゃよ。しかし、なぜ豊臣家を滅亡させねばならなかったのか。徳川家康はあそこまでせんでもよかったのに、そこをワシがあの世にいってしもうたら『大権現徳川家康』にも聞いてみたいもんだのう。遭えるかいのう?風林火山の『武田信玄』『武田勝頼』にも遭いたいものじゃよのう。
まあ太古の昔からまた中世・近世においてでも、このような『捨て子』事件はよく行われた、また行われていると聞いておる。その訳は昔の赤子の死亡率は高く、子が生まれてもすぐに死んでしまった。だから親達は子供に元気に生きて欲しかった。『捨て子は必ず丈夫に育つ』そういうまじない(迷信)に頼ったものだ。今でもやっとるぞなもし。まあ、ワシはそのおかげで元気にすくすくと育ったということだのう。

七、ワシ神隠しに会う
『玉枝さん大変よ……赤ちゃんが北野神社におってないよ……おってないよ…どないしょう……どないしょう……』足立はなさんがあわてて母のもとへ駆け込んだ。というように、この時、ワシは行方知れずになてしもうたのだった。さてさて神隠しに遭ったワシは明くる四月一日に、北野神社の中で泣いておるのを見つけられた。多分北野大神宮がワシをこの世の救世主(おおげさだがこの世で役に立つ人間になるように)となるように解き放たれたのだ。その赤子を見つけたのは上のおばはんだ。上のおばはんは名前は足立操(みさお)ちゅうて、なかなか気のええおばはんだった。ワシはおばはんの手から捨て子の拾い子として山口完二に拾われたのだよ。上のおばはんは多少神ががり的な事があったような気がするのう。
ある時ワシが喉に一センチくらいの飴玉をつめてしまって、虫の息になってしまった。『………』母はワシを逆さにし背中をたたいた。『…………・』が、飴玉はとれなかったのじゃ。ワシは呼吸困難の為ぐったりとしてしまった。このままの状態が数分経過すれば、この世から消えてしまうところだった。だがその時、足立操おばはんが登場したのだわい。『玉枝さんはよう貸してみなさい』とワシをむんずと取り上げると、喉に太い指を突っ込んだ。すると飴玉が胃に押し込まれ流れて落ちた。『ムムム・・…』ワシは蘇生したのだ。『玉枝さん、和久さんは、もうべっちょないよ』危機一髪、上のおばはん本当に有り難う御座いました。上のおばはんは身体もでかくまた声もでかかったのう。しかし、もうとっくにおばはんも、又、足立やす子さん(おばはんの子供)も亡くなってしまった。おばはんにもう一人足立隆夫という子供があった、が、舌で『タン、タン』と大きな音を鳴らすのが得意だった。あんな音は誰にも出せないぞ。彼はワシよりひとつ年上で、今日本交響管弦楽団にて演奏をしているはずだ。




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